ストレスの限界◆先生なのに不登校?!見えない未来【キャリア迷走ストーリー①】





小学生の頃から、なりたかった職業


「先生」


その道だけを見て、まっすぐ教育学部に入学。
学生時代のボランティアも小学校での指導。
バイトも、家庭教師。
留学先でも、英語教授法を選択、
小学校でアシスタント勤務。

教えること。子どもに関わること。

英語。


それが仕事になったから
一生かけて頑張ろうと思っていたんです。

親も、公務員になった私に安心していたし。

順風満帆


同期に恵まれ、
指導教官に恵まれ、
生徒に恵まれ、

もちろん壁は沢山あったけれど、
「いい先生」に、早くなりたかった。

ただ、

・・・体が壊れる方が早かった。

なんて残念な結果 笑!
ついてきてくれよ胃腸!

トイレで毎日血を見ていたけど、
そのままにしていたんです。忙しいしね。

ストレスがすぐにお腹にくる私は
不安や、我慢や、悔しさ、疲労が、
すべて血になって表れていたんです。。


わたし、先生になって初めての夏休みと、
初めてのボーナスは、

「入院」に使ったからね。

永遠の笑い話



当時、自分に甘くできなかったんですよね。

「いい授業」がしたくて、準備を終われなくて
「いい授業」ができなくて、泣いていた。

トイレで泣いたよね。

自分の無力さに気づく1年目ですよ。


まぁ仕事はどんどん押し寄せる、
要領を得ない新人は全然うまく回せないし。

で、

土日は部活だったし。



平日は始発2本目の電車。帰宅は23時。

土日は部活だったし。(また言う)

結局辞めるまでの私の20代の土日はすべて部活だった。(部活の後、必死に合コンは行ってましたけどね笑)


まぁそれでも6年くらい経って
ようやく、授業が形にはなってきていたと思う。


子供達の英語力を伸ばせる自信が持てるようになってきたし
もっと研修を積みたいと思った。

結構研修は自費で出かけてましたよ。
田尻先生好きで。


クラスもいい集団がつくれるようになってきた。
部活の指導だって、それなりにやっていた。


なぜか配属になる部活は、地域で優勝する強豪チームばかりだったからゆるい活動はできなかったし。
全部、全力でやっていた。


学級目標「120%」とか「一勝懸命」とか

そういうの多かったし

頑張ってたのわかりますよね。笑
先生してる方なら、学級目標で、わたしの全力さ、想像できるのではないかと笑


金曜の夜は、
むしろいつもより明日の朝が早いからね。
部活集合 7:30ころだしね。
大会の日の朝は5:40集合とか。
(手当ないしね。)


日曜にくたくたになって帰ると、月曜が始まる。
3月まで息継ぎしていないのに、
また4月がやってくる。


美容院で、「先生って今、忙しい時期なんですかー^^?」って言われた時は
ブチ切れそうになった笑 
美容師さんに悪気はない

忙しくない時期があるとでも思っているのか!
休みなどない!!と。笑


よく同期と、
「3月にもらう子ども達からのお手紙で
1年の苦労が報われるけど…
一瞬で新しい年度という現実に戻るよね笑」

と苦笑いしていた。



疲れていた。


それから、少しずつ
自分の人生に視点を当てるようになっていたんです。


人生は、そのまま仕事であり、仕事は、人生そのもので、他に余白はなかったけど

そこへ、だんだん、

私はこれからどうやって生きていくのか
問いたくなる場面が多くなった。



友達は、どんどん結婚して、家庭を持っていくし
同期で一緒にがんばっていた先生の仲間は、私以外全員育休に入った。

これは結構ショックだった笑


結婚式の招待状ラッシュの追い討ち笑

土日は、部活か結婚式かの二択!笑

(当時、わたし朝の会で招待状が届くたび報告していたらしい驚
教え子談←私本人は覚えてないっていうね)


病んでる〜!



ちょうどこの頃、両親が離婚してね。

それまでにも色々あったから、やっと離婚した感じだった。
家族も親戚も、ぐちゃぐちゃだったから
味方がいる気がしなかった。
彼氏もいなかった←


そんな状態で現場に立っていると
物事が明るくは見えなくなった。


だから、いろいろ悪い方向へ考えちゃったり、
仕事に楽しさを感じられなくなってくるのも
いろいろ不安になって苦しくなるのも、全部、

わかりますよ。


あなただけじゃない。



私は、「かなり厳しい先生」をやっていて。

細かいところまで、許さなかった。
徹底的に指導していたんです。
「120%」なんで笑


怒鳴りすぎて、声は枯れはじめた。
(咽喉科で薬もらってたしね)
(合コンでは酒焼け?とか言われちゃうしね。ちゃうわ!)


そんな自分が、嫌いだった。



でも、他の指導方法が、その時、わからなかった。

みんなそうやって、厳しさの中で上手くいっているように見えた。
そして子供達は、規律正しく私の言うことを聞くようになった。

でも、自分が、厳しすぎて嫌いだった父親に
そのまま重なる時が多くて、悲しかった。


そうは言ってもね、

子供たちは、すごく懐いてくれて、楽しく過ごしていたの。
よく爆笑して、授業もおもしろかったし
私の授業は人気があった(自分で言うけどね)


ただ、

自分が指導している方向性に自信がなくなる時はあった。

みんな一緒に、みんな同じで、“普通”を目指す学校の雰囲気
これはダメ、こうしなさい。と命令口調になる時

言いながら、
「本当にそうか?」と自問していた。


周りに相談すると、真面目だなぁ〜笑!!と言われていた。

疑問に思う場面、ありませんか?



さらには、
こうありたいと思える、
目指したい先生が、
見つからなかったこと。


先生として、すばらしい方はもちろん沢山いた。
けれど、自己犠牲の上に、子供達のための教育があるように見えたんです。

自分の時間は、なくて、
自分のプライベートはなくて、
自分のオシャレなんかしなくて

いつも忙しそうで

いつも同じ内容のグチで笑って

毎年がルーティーン。


こうなるのか、これを、あと30年か。
この箱の中で、土日なく、あと30年か。

って。


そんな中、何をやっても批判ダメ出しやり直しされる厳しい時期がやってきた。

冬の時代だよ!

30歳直前の、
教員としての過渡期だったんだと思う。

今思えば、うまく乗り越えられる術はどこかにあったかも知れないのに真っ向から、それに対峙して、自分を責め続けた。胃腸も。

そして、負けるつもりもなかった。
頑張った。胃腸も。

怒りをエネルギーにしていた時期だった。



その1年間は体がおかしかった。

咳がずーーーーっと止まらず、夜寝られず
病院に行っても「風邪…?」と言われ放置
お腹背中全体に蕁麻疹が出たり
まさかの笑インフルエンザAB両方かかった。

↑これマジで伝説。そして迷惑。


挙句。


ある日の水曜日の放課後の職員会議で、
熱っぽくなり、
「小泉さん、顔赤いよ?大丈夫?」
と言われて早退した日から

一気に私は坂を下り、吐き続け、
数日後には歩くのもままならなくなり、

かろうじて辿り着いた病院から、
救急車で搬送された。

そこから入退院を繰り返す。

3回。救急の先生も顔なじみだわ!
8kg痩せた。ラッキー♡←ちがう。



学校に行くと、激痛。

精神科にも行った。
カウンセラーのところにも通った。
先生になるきっかけになった恩師に電話もした。

ベットで、痛みに耐えながら


「もうあの現場に戻れない、戻るのが怖い」と
(不登校ですわ)



子供の頃からの夢だったはずの
学校を思うと、



気持ちはかなり落ち込んでいった。

②環境を変えようと思うも惨敗◆小学校・特支・海外・育休、閉ざされる道

へつづく

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小泉マリエ

学校で働く先生をしあわせにしたい。
時間も、お金も、時間の余裕も。
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